『訂正する力 (朝日新書)』
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ISBN:4022952385
ひとは誤ったことを訂正しながら生きていく。
哲学の魅力を支える「時事」「理論」「実存」の三つの視点から、
現代日本で「誤る」こと、「訂正」することの意味を問い、
この国の自画像をアップデートする。
デビュー30周年を飾る集大成『訂正可能性の哲学』を実践する決定版!
聞き手・構成/辻田真佐憲 帯イラスト/ヨシタケシンスケ
保守とリベラルの対話、成熟した国のありかたや
老いの肯定、さらにはビジネスにおける組織論、
日本の思想や歴史理解にも役立つ、隠れた力を解き明かす。
それは過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、
現実に合わせて変化する力――過去と現在をつなげる力です。
持続する力であり、聞く力であり、記憶する力であり、
読み替える力であり、「正しさ」を変えていく力でもあります。
そして、分断とAIの時代にこそ、
ひとが固有の「生」を肯定的に生きるために必要な力でもあるのです。
(目次)
第1章 なぜ「訂正する力」は必要か
第2章 「じつは……だった」のダイナミズム
第3章 親密な公共圏をつくる
第4章 「喧騒のある国」を取り戻す
日本には、まさにこの変化=訂正を嫌う文化があります。政治家は謝りません。官僚もまちがいを認めません。いちど決めた計画は変更しません。(…)とくにネットではこの傾向が顕著です。かつての自分の意見とわずかでも異なる意見を述べると、「以前の発言と矛盾する」と指摘され、集中砲火を浴びて炎上する。そういう事件が日常的に起きています。(…)そのような状況を根底から変える必要があります。そのための第一歩として必要なのが、まちがいを認めて改めるという「訂正する力」を取り戻すことです。(「はじめに」より)
抜き書き
訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のことです。それは、持続する力であり、聞く力であり、老いる力であり、記憶する力であり、読み替える力でもあります。
ヨーロッパは訂正する力を巧みに利用しています。他方でいまの日本はその力を十分に活用していません。その差異はコロナ禍であきらかになりました。
p.76
訂正する力の核心は、「じつは・・・・・・だった」という発見の感覚にあります。ひとは新たな情報を得たときに、現在の認識を改めるだけでなく、 「じつは・・・・だった」というかたちで過去の定義に遡り、概念の歴史を頭のなかで書き換えることができます。
人間や集団のアイデンティティは、じつはそのような現在と過去とをつなぐ「遡行的訂正のダイナミズム」がなくては成立しません。
p.137
日本において、祭りは、単なる娯楽でもなければ、また宗教儀式でもない、ひととひとを結びつけるアイデンティティの確認の手段として発達してきました。
いささか飛躍するようですが、この意味において、ぼくは、祭りというのもまた、訂正する力が発揮される場だと言えるのではないかと考えています。祭りに参加することで、ぼくたちは、「この村(共同体) はじつは・・・・・・だった」と過去を再発見し、現在につなぐかたちで集団的記憶を訂正するという営みを行っているのではないか。だから祭りがある共同体は強いのではないか。
p.176
ひとは老います。 人生は交換できません。それゆえ、ある時点からは訂正する力をうまく使わないと生きることがたいへん不自由になります。
訂正する力を使うためには、自分を交換不可能な存在として扱い、凝り固まった自分のイメージを「じつは…だった」の論理によって訂正してくれるような、柔軟なひとを周りに集めなければなりません。それは具体的には、小さな組織や結社をつくり、「親密な公共圏」をつくることで達成されます。
pp.180-181